ひとつの行動が皆(誰か)をつき動かす
[moblog]
2010/03/14 0:54:34

21時過ぎに帰宅。
予定よりも早かったので、何処かBARにでも立ち寄っても良かったのだが、明朝も早く、気が抜けない仕事内容のスケジュールが続くので、まっすぐに帰宅。
この日(13日)、見るのが楽しみな予約録画も幾つかあった。
日中に放映された時代劇『山桜』(テレ朝)。
20時からの『バンクーバー・パラリンピック開会式』(NHK教育)。
帰宅時に録画進行中の広島発ドラマ『火の魚』(NHK)。
まず、部屋着に着替えたり、夕食の準備をしながら、バンクーバー・パラリンピックの開会式の模様を観た。
日本時間で午前11時スタートのはずだが、オリンピックとは違い、地上波でもBSでも生中継は、例年通り、為されない。
20時からの放送(1時間)もダイジェスト中継。25分程で終わり、その後は、10日間に及ぶ大会の「見所」。
開会式に限らず、パラリンピックはTV中継が全く為されない。
毎日20時からのNHK教育での25分間番組のみ(深夜にNHK総合で再放送)。
障害者の中には、オリンピック以上に楽しみにし、励みにされている方も多いだろうに(出場選手の家族や友人はTV中継のないことをどう思っているのだろうか)。
オリンピックとあまりにも違い過ぎる。
これを差別と言わず、何と言う。
毎年のことだが、理解に苦しむ。
選手達がメダルを獲得する度に、夜の民放のスポーツ・ニュースでキャスター達がニコニコして「おめでとうございます!」や「やりました!」と言う姿が目に浮かぶが、メダルに届かなかった選手達の真摯な姿も紹介して欲しいものだ。
障害者がスポーツと真摯に取り組むには、オリンピック選手よりも様々な面でハンディを負っているし、様々な面で経費も嵩む。
彼等が変わらずに選手生活を出来るようメッセージすることもメディアの務め(努め)のようにも思う。
身障者の積極的な社会参加、「健常者」(私はこの言い回しが全く好きになれないのだが)の意識変革の為にも、(オリンピック同様の扱いの)パラリンピック中継は為されて然るべきかと思う。
それが為されないのなら、この国は相当な「後進国」だ。
開会式に登場した聖火ランナーの中に、テリー・フォックス氏の御両親の姿があった。
「テリー・フォックス」という名前を聞いて、ピンとくる日本人はまだまだいると思う。
今から30年前、癌により片足を切断したカナダ人青年が、癌研究の為の基金を募る為、そして、病気の子供達に「奇跡」を見せて彼等を勇気づける為に、8,240kmのカナダ横断マラソンを決行した。
その真摯な生きる姿勢は、1983年に『テリー・フォックス物語』として(同じハンディを持った者の主演で)映画化され、日本でも話題になった(ロザリンド・チャオというチャーミングな女優とのファースト・コンタクトでもあった)。
今回のバンクーバー・パラリンピックの開会式のテーマ「ひとつの行動が皆をつき動かす」を象徴するかのようなシーンだった。
テリー・フォックス氏の想いは継承されているのだ。
続いて観た録画は、藤沢周平の同名短編小説の見事な映画化、『山桜』。
食事の後片付けを終えてから、ひたすら真摯に向き合って、浸った。
この気品と余韻は、数年前の煩い「純愛」ブームとは次元が違うようにも思う。
「純愛」とは、言動の美しさと静寂(しじま)の饒舌さがあってこそのものであり、そうでないものは(もしかしたら)「ごっこ」に過ぎないのかもしれない。
観ている内に、「あの時代」に生まれ代わって、今一度、「純愛」を体感してみたくなった。
庄内(山形)の美しい山桜と、ヒロイン&侍の心情。
創作、特に日本のそれは、行間を読むような表現と想像力が創り手と受け手双方にあってこそ、活きてくるものではないか。
藤沢周平の原作を読んだのは20代の終わり頃だったかと思うが、再び手にしてみたくなった。
この作品にも感じた、「ひとつの行動が皆(誰か)をつき動かす」。
緒形拳さんの遺作『帽子』(秀作!)の記憶も新しい広島発ドラマ。その新たな作品『火の海』は、原作室生犀星、主演原田芳雄さんということもあり、楽しみにしていた単発ドラマ。
これは、日を改めて、じっくり向き合って観るつもりでいる。
HDDの録画を見ている内に、『ターミネーター:サラ・コナー クロニコルズ』が新たに予約録画され、この後は『24』のシーズン7もある。
私のHDDは常に満杯状態である。
やれやれ…。
写真は、10日程前に、目黒通り沿い(住所で言うと「自由が丘」と「八雲」の間)で目にした桜。
観たばかりの映画に登場した山桜とは全く違う、植物にとっては決して恵まれた環境じゃないけれども、ちゃんと咲くんだなぁ。
ああ、でも、藤沢作品のファンのように、庄内の桜もいつか実際に観賞してみたいものだ。
さて、明日は早いので、しっかりと眠らないと…。
インターネット上に乱れ飛ぶ酷い日本語の用い方とそのベクトル。
その拙さに哀しくなる。
醜い言葉を多く語ることに自身の感性が嫌気をささないものなのだろうか。
美しいものを過去や何処かに追いやった為に、何かが欠落し、感覚が麻痺したのか。
不特定多数に発する言葉は共に成熟を目指すものでありたい。
この国ではいったい何歳から「大人」と称される存在たりえるのか判らなくなることがある。
道を歩いていても、TVをつけても、「ヤバイ」と人々が発している。
本当に「ヤバイ」のは(裏通りを脅えながら逃げ惑う)犯罪者じゃないのに、「ヤバイ」と口にせずにいられない感性にあるのではないか。
勿論、今晩観た藤沢文学の男女は「ヤバイ」なんて言葉を発しないし、そんな状態にも陥らない。
「かなしい(悲しい・哀しい・愛しい)」や「いたわしい(労しい)」といった想いがあるだけだ。
今、この時代、そういった想いこそが尊重されるべきだと思うのだが。
今一度書き留めておきたい。
「ひとつの行動(言動)が皆(誰か)をつき動かす」
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途夢風情感
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